挨拶代わりに書く
アメリカ人の父親と日本人の母親の元で産まれた22歳、所謂ハーフです。
僕が生まれた時点で父親が60歳、母親はまだ20歳でした。(頭おかしい)
ちなみに姉が1人いるので連続で仕込んだ事になります。子供ながらに尊敬(と同時にドン引き)する。
僕が産まれてすぐに育て方と価値観の違いから母親が家を出て行き、父親に育てられることになりました。
鎌倉のとある病院で僕は産まれ、海岸近くの少し古い二階建ての木造の家で過ごしました。
お金に困っていた訳では無く、この家を選んだ理由は父親の趣味らしいです。
木造ながら二階建てでそこそこの広さがあり、一回にはキッチンと居間、階段を上がって二階にはすぐに大きな部屋があり、寝る時は大柄な父親もすっぽり入るような大きな布団の中で父親を挟むように3人で川の字になって寝たのをよく覚えています。エアコンはなかったけど 、暑い日は窓を開けて、寒い日は父親にしがみついていればへっちゃらでした。
見上げれば屋根には少し黄ばんだ2台の大きな白いファンが小さくキイキイと音を立てながら双子のように回っていて、その影をぼーっと眺めながら眠りにつくのがたまらなく好きでした。
今でも1人で寝ているとこの光景を思い出す事がよくあります。
母親の記憶は全くありませんが、父親の性格は頑固で融通が効かず、思った事はすぐに口に出して反論する強気な性格で、今の僕には似ても似つかない様な性格だったと思います。
そんな頑固な父親なので敵を作る事はそれなりにあったけど、人に好かれるらしく近所には僕達の状況を理解してくれる仲の良い知り合いがたくさんいました。
父親は僕達兄妹を溺愛し、また僕達も父親の事が大好きでした。母親のいない寂しさを感じる事は無かったと思います。
そんな頼れる父親も僕が物心ついた時には重い病気を患い、足を悪くしていた為外出時には電動の車椅子を使っていました。
3人で父親の車椅子に乗って出かけ、海沿いの風がよく通る公園近くの手すりにつかまりながら必死にリハビリをする父親の姿をよく覚えています。
帰りは行きつけのバーで父親が酒を飲み、僕達は常連のお客さんに可愛がられていました。
このバーは実家と同じくらい思い出の深い場所で、書きたい事もいっぱいあるけど流石に長くなりすぎるので割愛。
去年閉店してしまったこのバーには小さい頃の僕達を知ってる人が今でも沢山いて、たまに顔を出すととても喜ばれました。
そんな父親の病気は日に日に進行して行き、病院に通う回数が増えていきました。
入院も考えなければいけなくなった頃、家にはスーツを着た大人がしょっちゅう訪ねて来るようになりました。
何度も訪ねてくるスーツ姿の男と話し合いをしては怒る父親を見て、少し不穏な空気を子供ながらに感じた事を覚えています。(後で分かった事だけど、このスーツ姿の大人は児童相談員で、自分の信頼できる施設にしか子供を預けないと決めていた父親と何度も話し合いをしていたらしい)
保育園の卒業を来年に控えた年の頃、僕達は少し離れた施設に預けられる事になり、父親は入院しました。
初めて施設に連れて行かれた時人見知りの姉は泣き、状況を理解できない僕は呑気に本を読んでいました。
いきなり見ず知らずの子供達と衣食住を共にする環境に不安で戸惑いましたが、新しい環境に馴染むのにそれ程時間はかかりませんでした。
その頃の父親は入院していたものの、週末には家に帰る事ができ、毎週末に実家にお泊りするのが僕達の楽しみでした。
しかしそんな日々も長くは続きませんでした。
施設の近くの幼稚園を卒業し、小学校に入学する頃には、家に帰れる事はほとんど無くなりました。
父親の病気は日に日に進行して行き、みるみる痩せていきました。
家で会える事は無くなり、学校終わりに園長先生に連れられ毎日病院まで会いに行く日々。
大好きな父親に会える事は楽しみだったけど、日に日に痩せていく父親を見るのはとても辛く、そして怖かったのを覚えています。
小学校では順調に友達もでき、放課後に遊びに誘われる事も増えました。
父親は僕達にとても会いたがっていたけど、友達と遊びたい気持ちと、痩せた父親を見るのが怖くて、病院に行く回数は当初より減っていきました。
毎日会いに行かなかった事を今ではとても後悔しています。
もちろん病気は進行していて、1つ学年が上がる頃にはベッドから起き上がれなくなっていました。
さらにもう1つ学年が上がった頃には、父親の病気はほぼ末期まで来ていました。
痩せこけて骨と皮だけになり、脳まで病気に犯され、僕達の存在をあまり認知できなくなっていました。
この少し前から姉は、父親の病室に入るのを嫌がるようになっていた気がします。僕もそうでした。
それでもお見舞いを続けていたある日、園長先生から小さい頃に僕が得意だった目玉焼きを作って父親に持っていってあげようと提案されました。
僕は同意し、施設で作った不恰好な目玉焼きを大喜びで持って行ってあげました。
チューブだらけで喋る事もできない父親に、自分が作った事を得意気に話し、食べて貰おうと父親の口に一口サイズに分けた目玉焼きを近付けました。
……父親は僕の作った目玉焼きを拒否し、僕の作った目玉焼きは枕に落ちました。
何かの間違いだと思った馬鹿な僕は、目玉焼きを拾い上げもう一度皿に乗せ口に近付けました。
父親はそれをまたも拒否。手で払われ今度は皿ごと床に落ちる。
床に落ちた目玉焼きと自分を拒否する父親を見て僕は号泣してしまいました。優しい父親はもういなくなってここにいる人はもう別人だ、父親なんかじゃない、そう感じてしまいました。
こうして僕は完全に病院に行かなくなりました。
それから少し経ち、授業中に友達と談笑していると、先生が慌ただしく教室に入ってきました。
教室の外に荷物を持って出てこいと言われ、外に出ると、父親の危篤が知らされました。
急いで迎えに来てもらい、病院に向かう道中に、父親は亡くなりました。
病院に着いて動かなくなった父親を見て姉は泣きました。
今だからこそ言えますが、僕は動かなくなった父親を見てとても安堵しました。
もう苦しむ父親を見なくて済むと思うととても楽になりました。
冷たくなった父親の手を握り、病室を後にしました。
入院棟のアルコールと生活臭が混ざったような独特のにおいは、今でもトラウマです
その後通夜と葬式を済ませ、父親は灰になりました。
実は父親のお墓の場所も知りません。関東にあるらしいとは聞いているけど。
父親の命日も知らないし、母親との馴れ初めや昔の職業、その他ほとんどの情報を僕は知りません。
ただ、父親が選んだ施設は本当に良いところで、中学を卒業して施設を出るまで何不自由無く育ててくれたと思います。
書いてて辛くなってしまった
てなわけで小さい頃の思い出を適当に書いてみました。
勢いで書いたし添削するのも面倒なので載せちゃいます
中学校を卒業して一人暮らしを始めて、働きながら高校に通い始めてからは本当に地獄みたいな最悪な日々しか送ってないので特に書くこともないですかね
基本的にこんな胃に穴が空くような記事を書くつもりはないので、もっとふざけた話か映画のレビューとかなんとなく思った事を適当に書い くつもりです
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文章力、欲しいなあ…